今まで何しても上がらなかった基礎体温があがりました!と「君の名は。」妄想談義・特別編「故山に帰りたし」
いつもありがとうございます。
日野です。
深夜の配信となりすみません。
7月8日(水)18時からのAxis Mundi株式会社のロベルトさんの、Zoomオーガニッククラブの予約ですが、予約いっぱいになりました。
たくさんのご参加ありがとうございます。
ご参加の方は、当日どうぞよろしくお願いいたします。
ソマベディックに関してのご質問などございましたら、メッセージいただければ、ロベルトさんにもお答えいただきます。
今まで何しても上がらなかった基礎体温があがりました!
あしふみ健康ライフをご購入いただいたお客様たちから、良いお声をけっこういただいており、こちらも大変嬉しく思っています。
先日、あるお客様からご注文のお電話をいただいたときに、妻が電話をとったのですが、その時に以前購入していただいた、あしふみ健康ライフを絶賛してくだったそうです。
その方はずっと低体温であったそうです。
平熱が35.8度で、本当にいろいろとありとあらゆることをして、平熱をあげようと努力されたそうです、しかし、なかなか体温が上がらなかったのが、このあしふみ健康ライフをやりだしてから、体温が上がってきたそうです。
多い時には30分とかしていたそうです。
仕事に行くときに、会社の規定で朝、体温を測るそうなのですが、それがこのあしふみ健康ライフをやりはじめてしばらくしたら、平熱が36.3度くらいになったそうです。
30分くらいした次の日は37度台の時もあったそうです。
そして36.3度や36.5度といった体温が、当たり前のように出るようになったということで、本当に喜んでいただきました。
妻は、今まで僕が家であしふみ健康ライフを必死こいてしているときも、半ば馬鹿にしてた感があるのですが(笑)、その体温が上がったということをお客様から直に聞いたものだから、最近は私もやろうかな・・・といって、テレビや音楽を聴きながらするようになっています。
僕があれほどやったら・・・と言ってもやらなかったのに・・・。
それはともかく・・・その方はあしふみをした後は、ふくらはぎがじんじん熱くなって、一時的に体温も37度台になるそうです。
これは一家に一台、必要ですね・・・と絶賛していただきました。
本当に嬉しく思います。
一家に数台あってもいい
先日の日曜日に2階の寝室で3時間くらい読書をひたすらしていたのですが(‘◇’)ゞ後から考えたらあしふみ健康ライフを2階にもっていって、やりながら読書をしたらよかったと思いました。
というか、もって上がるのもめんどくさいから、2階の寝室にも、もう1台置いておこうか・・・と今検討してるところです・・・。
まあ、持ち運びしたらいいのですが、それもめんどくさいという、どうしようもないめんどくさがりなわけです。
一家に一台と言っていただきましたが、一家に数台あってもいいかもしれません。汗
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あしふみ健康ライフシリーズ
http://forever-ex.com/Li1486/1316632
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「君の名は。」妄想談義・特別編「故山に帰りたし」
ここからは、「コロナ」=「君」から「君の名は。」の妄想談義ですので、興味がない場合はスルーしてください。
前回は、ジンギスカンの幼名テムジン(鉄木真)についての妄想をみました。
今回で、いい加減に、義経=ジンギスカン編を完結としたいと思います。汗
ジンギスカンの前半生は伝説に満ちていていて、はっきりとした実体をもってくるのが第二次即位の1206年。
衣川の戦いが1189年ですから、その間、17年。
もし仮に義経が北へと逃れ大陸に渡り、ジンギスカンになっていたとしたら、モンゴルをある程度統一していくには、十分な時間があるとみていいでしょう。
第一次即位が1189年と言われていますが、これもはっきりした史実とは言い難く、そのように伝えられているだけです。
義経一行が、衣川で死んでいない場合は、衣川の戦いの1年前、すなわち1188年には平泉を脱出していたと言われていますので、義経の一行、特に弁慶たちが先発隊として、満蒙の地へと向かっていた可能性があり、その地で、弁慶を中心にして第一次即位を行ったというのも、ありえると指摘しています。
義経は、東北、アイヌでしばらく滞在した痕跡がありますので、おそらく弁慶たちが先に、満蒙の地に渡ったのではないかと指摘されています。
『源義経と成吉思汗の謎―衣川偽戦!義経は生きて北へ』(佐々木 勝三 (著), 横田 正二 (著),大町 北造 (著))を途中まで読んでいるのですが、現地調査などを含めてこの方たちの調査も凄いです。
ここまで数々の状況証拠が出てきたら、もはや義経がジンギスカンではないと否定する方が難しいとさえ思えてきます。
ジンギスカンには1189年の第一次即位と、1206年の第二次即位がなぜあるのかというのも、第一次即位には先発隊の弁慶が行い、第二次即位になって義経が表に出たとすれば、自然な流れとなります。
またジンギスカンは大男であったと言われているのも、大男の弁慶の姿を言っていたとなると、何となく辻褄があってくるのです。
義経がジンギスカンとなってからは、ほとんど人前には出なかったとも言われており、ある意味、ジンギスカンの容貌は謎に包まれています。
そして、ジンギスカンが死んだときには、背が縮んでしまったと記されていたりするのです。
これは義経が底の厚い靴を履いたりして、大きく見せていた可能性があり、死して本来の姿に戻ったとも言えます。
いずれにしても見ていくと切りがないのですが・・・下記にジンギスカンと義経の相似について、いくつか記されていますので上げてみます。
www011.upp.so-net.ne.jp/nariyoshi/ushiwaka_8.htm
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そのほか、あまたある証拠といわれるものの一部を紹介しよう。
一、チンギス・ハーンは即位の式に九本の白旗を掲げ、生涯白い色と数字の九を好んだという。
白は源氏の白旗、九は義経の通称源九郎に通じる。
一、チンギス・ハーンは源氏の紋章である「笹りんどう」を紋章としていた。
一、チンギス・ハーンは配下の将兵に「タイシャア(大将)とよばれ、その子供は「オゴタイ(御子様)」とよばれたという。
一、チンギスの優秀な家来のうち、ひとりは「サイダ」という。
これは西塔に通じ、西塔となれば弁慶である。
また、家来の「イサ」は伊勢三郎、「シュウビ」は鷲尾三郎にちがいない。
一、モンゴルの人はチンギス・ハーンを「イチン・チンギス」とよぶ。
イチンとは「源」の中国読みだ。
一、チンギス・ハーンは大男だったというが、人前ではけっして衣服を脱がず、死んだのちに体が縮んだという。
これは小男だった。
義経が靴底を厚くするなど、細工をして背を高くみせていたからだ。
一、二人の戦い方は類似点が多く、軍事専門家にいわせると、同一人でなければできないような戦術を用いたという。
一、チンギスは巻狩りや相撲など、日本の武芸に似たものを好んだという。
一、ロシア極東地域にはハンガンという地名がある。
これは義経の判官にちなむものだ。
また、モンゴルにはヒロタ(広田)・モクゾン(木村)・チタ(知多)・シュビ(鷲尾)・スルカ(駿河)などの地名もある。
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意味深なジンギスカンの辞世の句
そして、ジンギスカンの辞世の句と言われる言葉がまた意味深なのです。
「われ大命を受けて死す。いまは恨みなし。ただ故山に帰りたし」
故山に帰りたし・・・。
どのような気持ちでこの言葉を言ったのかは分かりませんが、少なくともジンギスカンは戦いの最中、中国の六盤山あたりに最後はいたとされています。
中国にいたとしてもモンゴルとは同じ大陸続きですから、わざわざモンゴルのことを故山とは言わないように思いますし、故山とは、故郷の山、それも静御前との思い出の地、吉野山を思っていたのかもしれません。
また、「われ大命を受けて死す」と言っているのも、非常に意味深い言葉に感じます。
そう、ジンギスカンには「大命」があったと自ら告白しているのです。
自分の思いを超えた「大命」があったからこそ、そして大命を自覚していたからこその言葉だと思います。
幼少のころ、鞍馬山で八咫烏の組織の人間に見込まれ、英才教育をされていたと思われますので、おそらくその時に、教え込まれ自分の役割を自覚していたのだと思います。
それは飛鳥昭雄さんが言っていた「預言成就」のために、義経は生まれてきた・・・!!と言えるのかもしれません。
ジンギスカンの墓
さらに、「いまは恨みなし」と言っています。
これは兄である源頼朝に反逆の罪を背負わされて、壇ノ浦の戦いの後の逃避行などを指しているとみることもでき、そういった兄弟の行き違いや争いも、今は「恨みなし」と言っているのです。
そう考えれば、孫の代のフビライの時代に、ジンギスカン(源義経)の恨みをはらすために、日本に攻め入ったというのも、「そうではない」ということになります。
むしろ祖父のかつていた地に、フビライは憧れていたという見方もできます。
いずれにしても義経という人物を辿っていくと、衣川で簡単に自害するような人物ではなく、大命を授かり、大命に沿って動いていた、そういう人物であった可能性が高く、だからこそ元という大帝国を、一代で築き上げたのだと思います。
そして、衣川で死して、大陸でジンギスカンとして蘇ったことから、源義経=天照大神にも比肩しうることを以前見ましたが、義経(天照大神)が日本から大陸に渡ったことは、未来における「預言」「予型」になっている可能性があり、日本で言う天照大神を崇める、すなわち天皇家が、近い将来、日本に秘められた秘宝を携えて、大陸に渡り、中近東の本来あるべき場所へと、秘宝を安置させる時が来るといいます。
ジンギスカンの墓は未だに謎で分かっていないということですが、一節では、彼の故郷でもあったとされる、ブルハン・ハルドゥン山にあるとも言われています。
もし将来、彼の墓が特定されて遺骨などが見つかり、DNA鑑定などがなされるときが来たら、ジンギスカンの正体も明らかになる可能性があります。
ジンギスカン=義経は、今回改めて見ていくなかで、決して荒唐無稽な説ではないということを思いました。
義経は、己のためというよりもある意味、天に動かされていた人物で、まさに「預言成就」のために、動かされていた人物であったということが、明らかにされる時がくるかもしれません。
これで義経=ジンギスカン編は終了ですが、次回より、少しだけベテルギウスの超新星爆発と、平家滅亡と義経の役割についてふれてみたいと思います。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
日野
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