「茶色いご飯」を主食に・・・と「君の名は。」妄想談義・特別編「成吉思汗の秘密」
いつもありがとうございます。
日野です。
いつも深夜の配信となりすみません。
今回も簡潔にいきます。汗
後半は長いですが・・・(‘◇’)ゞ
山田豊文先生の「アスリート飯」より、今回から主食の「玄米」について見ていきたいと思います。
玄米はやっぱり凄いですし、玄米の凄さが改めて分かっていただけると思います。
少しずつ、見ていきます。
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植物性主体の食事を実践していく上で、最も基本となるのが「主食のあり方」です。
皆さんは普段の食事でどんな主食をとっているでしょうか。
おそらく大半の人が、白米やパン、あるいはパスタなどの麺類を思い浮かべることかと思います。
第1章でもご紹介したように、これらのものを同列のものとしてひとくくりにしたり、穀物の精製・未精製の違いや、コメと小麦の違いなどにも全く言及していなかったりするのが、日本のスポーツ栄養学の現状であり限界です。
皆さんには、主食として玄米ご飯を食べる機会を、できるだけ増やしていただきたいと思います。
「白いご飯」ではなく「茶色いご飯」です。
白米と玄米では、主食としての価値が違い過ぎていて、全く別の食べ物だといっても過言ではありません。
稲を収穫後、脱穀によって籾殻が取り除かれた状態が玄米で、そこから精米を経て糠や胚芽が取り除かれたのが白米です。
これは、白か茶色かという色の違いだけではなく、含まれる栄養素の種類と量が大きく違ったものになります。
だからこそ、玄米と白米は「全く別の食べ物」なのです。
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次回、玄米の栄養についてみてみたいと思います。
「君の名は。」妄想談義・特別編「成吉思汗の秘密」
ここからは、「コロナ」=「君」から「君の名は。」の妄想談義ですので、興味がない場合はスルーしてください。
前回は、静御前と源頼朝の部下、安達清常についてみました。
静御前の子がもしも生かされていたのなら、静御前も子とともにひっそりと生きたはずです。
しかし、その後の静御前の消息は分かっていません。
おそらく義経が衣川で死なず北へと逃れていたとしても、両者が再び逢うことはなかったでしょう。
しかし、義経は北へと向かい蝦夷からシベリアへ、さらにジンギスカンになったという説が根強くありますが、果して真実はどうであったのか・・・その時も、静御前のことは気にかかっていた事でしょう。
もし仮に・・・源義経がジンギスカン(チンギス・ハーン)であったとした場合に、その静御前との繋がりを思わせる非常におもしろい話があります。
ご存知の方も多いと思いますが、それはジンギスカンの名に表されているというものです。
ジンギスカンは「成吉思汗」と書きますが、この「成吉思汗」とはまた一見、面白い漢字を当てています。
しかし、これには深い意味があるというのです。
どういうことか・・・?
少し前に、静御前が鶴岡八幡宮社前で、頼朝と政子を前に、白拍子の舞を演じた場面がありました。
その時に静御前が詠んだ歌が義経を想う歌でした。
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しづやしづ しづのをだまき くり返し昔を今に なすよしもがな
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)。
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実は、この「成吉思汗」という名前は、静御前の歌への返歌となっている・・・!!というのです。
また、源義経を音読みにした「ゲンギケイ」と「ジンギスカン」の言葉の類似も言及されています。
成吉思汗とは、「吉成りて汗を思う」となります。
「吉」は「吉野山」となり義経と静御前の別れの場所。
その吉野山での誓いが「成」就する。
「汗」は「サンズイ」+「干」で「サンズイ」は「水」ですから、「汗」を「水干」と読み解きます。
「水汗」とは、白拍子の衣装を指しますので、すなわち白拍子の静御前を指すことになります。
「水汗」=「白拍子の衣装」=「静」!!
これらのことから「成吉思汗」とは、「吉成りて汗を思う」となり、「吉野山の誓いが成就し、静を思う」という意味が秘められているといいます。
また、成吉思汗は、万葉読みをすると「なすよしもがな」と読めるといいます。
確かに何となく、そのように読めるのが分かると思います。
これは静が舞ったときに歌った歌の「なすよしもがな」(成吉思汗)とも重なってくると。
「吉成りて汗を思う」
僕の拙い説明では説明しずらいので以下からまとめを引用させていただきます。
www011.upp.so-net.ne.jp/nariyoshi/ushiwaka_8.htm
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チンギス・ハーンは漢字で成吉思汗と書く。
この名前にも、秘密が隠されている。
文治2年(一一八六)のこと、義経と兄頼朝の仲はすでに決裂し、義経は愛妾静とともに南大和の吉野山に落ちた。
ここで義経は再起を期して静と別れたが、静は帰京の途中を捕らえられ、鎌倉で囚われの身となる。
この年四月八日、頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣した際、もともと京都でも指折りの白拍子だった静を召して、社前でその舞を鑑賞することになった。
このときの静の歌が
「吉野山嶺の白雪踏み分けて、入りにし人の跡ぞ恋しき」
「しづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」
行方の知れない恋人義経を恋い慕う歌である。
じつは、成吉思汗と言う名前は、この静の歌に対する返歌だという。
この名前を和風に読むと「吉成りて汗を思う」となる。
吉は吉野山で、義経と静の別離の場所、汗は水干で、白拍子だった静の衣装、すなわち静を指す。
つまり、「吉成りて汗を思う」という名前は「吉野山の誓いが成就した今、私は静を思っている」となる。
そういえば、成吉思汗は「なすよしもがな」とも読める。
また、モンゴル語では「ジ」「ギ」「ゲ」の発音は、必ずしもはっきり区別できないから、源義経をゲンギケイ」と読めば、「ジンギスカン」と似かよっている。
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そんなのこじつけである・・・と思う方もおられると思います。
しかし、興味深い一致ではあると思いますし、もし「成吉思汗」が、静御前への思いをもって付けられた名前だとしたら・・・、義経(=成吉思汗)は、静御前がどこかで生きているのを、知っていたのかもしれません。
『成吉思汗の秘密』を書いた高木彬光さんも、最後この成吉思汗の名前の謎解きをして、成吉思汗があれだけの領土拡大をして、モンゴル帝国を強大な国にしたのは、日本にもその名がとどろき、静御前にもそのことを知らせたかったからである・・・、といった解釈をされていますが、それはそれで非常にロマンあふれる話ですが、義経の場合は、その意味も少なからずあったかもしれませんが、「義」の「経綸」を果たすため、より大義をもって、そして預言を成就させるために、大陸を縦横無尽に駆け抜けたのかもしれません。
義経と静御前が初めて出会った場所
義経と静御前との出会いのエピソードは、場所などいくつか説がありますが、どうも義経の一目惚れであったことは間違いないようです。
ひとつのエピソードについて見ると、以下のようであったといいます。
http://heike.cocolog-nifty.com/heike/2005/02/post_3.html
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『義経記』では、義経と静御前が初めて出会ったのは、神泉苑(京都市中京区)としています。
ある年、日照りが続き、神泉苑では百人の高僧が呼ばれて雨乞いのために仁王経を読みます。
しかし、いっこうに効き目がありません。
そこで今度は、容姿の美しい百人の白拍子が集められ、舞わせることになりました。
九十九人の白拍子が舞ったのに、その効き目が顕われません。
最後の一人、静が舞ったところ、雷鳴が響き渡り、3日間洪水のように雨を降らせました。
このことで後白河法皇からは、静の舞が日本一であるという宣旨を受けました。
この時に、静は義経に見初められました。
そして義経の堀川の御所に呼び寄せられ寵愛を受けました。
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いかにも演出が加わったかのようなエピソードではありますが・・・、義経の静御前への愛は義経が「成吉思汗」となってからも、消えることはなかったのかもしれません。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
日野
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