これは感動の座り心地!「ピントドライバー」と「君の名は。」妄想談義・特別編「義経北行伝説」
いつもありがとうございます。
日野です。
少し前に、少しだけ紹介した「ピント」シリーズ。
通常のピントは現在、人気があり売れすぎて製造が追いつかず、一時欠品となりご迷惑をおかけしています。
今日は、前々から気になっていた、車用のピントドライバーを使ってみました。
いやあ・・・感動しました。これは凄いです。
もっと早くに使っておけば良かったと後悔しました。
僕自身、自宅から店への行き帰りや配達で、毎日車に乗っているのですが、車の運転をしているときにここ数年でしょうか、腰に負担を感じるようになり、長時間運転すると腰が疲れたり、軽い腰痛が起こったりしていました。
長時間運転していると腰が重たくなってくる感覚。
しかし、このピントドライバーをしたところ、座った瞬間、このフィット感に感動し思わず動画を撮りました。
内容のない動画ですみません・・・(-_-;)
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「これは感動!腰が超楽です!車が超快適空間になるピントドライバー」2020.6.20(3分4秒)
https://www.youtube.com/watch?v=srJTWB6tS4M
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ピントドライバーの特徴
今までにも、いくつか、車の座席に敷くそういったアイテムがあって使ってきたのですが、間違いなく、今までの中で最高の心地よい座り心地です。
これは運転するのが楽しくなるというのか、最高の居心地のいい空間になること間違いなしだと思いました。
ちょっと興奮しすぎですかね。すみません。(‘◇’)ゞ
しかし、これは、毎日運転する方や、腰痛が気になる方、車を長時間運転している方は、きっと感動していただけると思います。
少しピントドライバーについてお伝えしましすと・・・
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車は私たちの生活に欠かせない便利なものなのですが、一方で運転に伴う腰や肩の痛みは、仕方がないものと思っている方は少なくありません。
運転という活動を疲れても仕方がないものにしたくない。
いかに体を柔軟に保ち続けるか、これがドライバーの体を快適に、安全運転を継続するポイントです。
「腰だけでなく、首・肩・腕・お尻・足もリラックス」。
運転時の身体のストレスを軽減し、快適なドライブと移動後の活動も元気に。
「ピントドライバーエコ」は運転動作に着目し、人と車を快適にマッチングさせる、ドライバーのためのクッションです。
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そして、この快適さを生み出しているのがエスリーム技術というものです。
人体の構造を研究し尽くして、出来上がったシートといっても過言ではありません。
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エスリーム技術が可能にした心地よさ・・・
適切に活動を行うことが可能な姿勢を作ることをポジショニングといい、それを座位において行うことをシーティングといいます。
ピーエーエスでは年間300件を超えるシーティングを行っています。
特殊な採型機を用い、人の身体を熟知したセラピストが骨の重みを直接手で感じ、筋肉の緊張や関節の動きを確かめながら、解剖学、運動学にのっとった支持面を作り上げていきます。
このエスリーム技術によって出来上がった3次元立体構造が、ただもたれやすく座りやすいというだけではなく、自ら重心を整えることを促し、快適な姿勢と機能的な動きを実現するのです。
●ピントドライバーなしだと・・・
シートに沈み込むように骨盤が倒れ背中が丸くなり、腰に負担がかかってしまいます。
背中が丸いと頭が前に来て、肩が上がり、肘も緊張するので、ハンドル操作にも力が入ってしまいます。
●ピントドライバーありだと・・・
骨盤を適度に立てた状態で安定して保つ事ができます。
背骨を正しく骨盤の上に乗せることのできる位置をシートが教えてくれるので、腰の負担を軽減します。
頭を軽く保つ事ができるので、肩や肘もリラックスした状態で運転する事ができます。
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非常に身体が安定して支えられるので運転が本当に快適なのです。
下記のピントドライバーの動画を見つけました。
分かりやすく解説してくださっています。
年間300件以上のオーダーメイドクッションを作ってきた、作業療法士野村寿子さんが開発したのですが、その野村さんも、動画で解説をしてくださっています。
ぜひご覧ください。
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【p!nto Driver】 ピントドライバー(4分20秒)
https://www.youtube.com/watch?v=y0SZ8Pcseag
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またショップページでも、株式会社ピーエーエスの木島拓郎氏が、非常に分かりやすく解説してくださっていますので、興味がありましたらご覧ください。
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ピントドライバー
https://treeoflife.shop-pro.jp/?mode=grp&gid=2406977
ピントドライバーエコ
https://treeoflife.shop-pro.jp/?pid=150570506
ピントシリーズ
https://treeoflife.shop-pro.jp/?mode=grp&gid=2406977
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「君の名は。」妄想談義・特別編「義経北行伝説」
ここからは、「コロナ」=「君」から「君の名は。」の妄想談義ですので、興味がない場合はスルーしてください。
前回は、源義経の身代りになった男、杉目太郎行信についてみました。
歴史の定説からは全く外れた話になりますが、歴史には表の残される歴史と、裏の闇に包まれた歴史があります。
源義経は衣川で死ぬことなく、実は北へのルートをたどりやがて蝦夷に到達、アイヌ民族としばらく過ごし、オキクルミと同一視された後、さらに大陸に渡り、やがてジンギスカンとなった・・・。
何とも壮大な展開でロマンに溢れていますが、果して真実はどうであったのか・・・
しかし義経北行伝説のルートは、さまざまな伝承が残っているのも確か。
少なくとも源義経の北行伝説を辿っていくと、蝦夷にまではどうも行き着くのです。
ウィキペディアにはこうあります。
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義経北行伝説ルート紹介
平泉~気仙~遠野~上閉伊~宮古~久慈
義経北行伝説は平泉周辺をはじめ、気仙地方、上閉伊、そして宮古を含めた下閉伊、宮古以北の海岸線に広がっている。
その伝説の足跡は一行が宿泊あるいは休息のため立ち寄ったというものから、風呂や穀物を借り入れたという口伝と証文、来訪にあたり神社を建立したというものから、巨岩、巨石などの由緒にこじつけたものまで多種多様にわたっている。
ここでは、佐々木勝三氏の著書をもとに県内に散らばる北行伝説を紹介する。
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佐々木氏によると、1189年の衣川の戦いの約1年前にすでに義経一行は、平泉を脱出していたといいます。
ウィキペディアにはこうあります。
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佐々木勝三氏の義経北行タイムテーブルでは、義経一党が平泉を脱出したのは文治4年(1188)4月半ばとされ、その月のうちに人首、五輪峠、物見山を経て気仙郡に入ったとしている。
その4ヶ月後の8月には遠野、上閉伊を経て下閉伊郡大沢村(現・山田町大沢)に入り、9月には長沢村(現・宮古市長沢)に入り、その月のうちに黒森神社にて大般若経の写経をはじめていることになる。
翌年の文治5年(1189)には、義経を差し出さなければ奥州を征伐せざるをえないとの、鎌倉からの通達が泰衡の元に届き、4月には義経を誅討せよとの宣旨が下り、泰衡VS義経の衣川合戦となる。
伝説の時系列ではこの時、義経は宮古の黒森山におり写経をしていることになる。
では、衣川合戦において高舘で討たれたのは誰だったのか?という疑問が発生する。
この矛盾を埋め合わせるのが義経の影武者とされる「杉目太郎行信(すぎのめたろうゆきのぶ)」という人物に関する伝説だ。
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これについては前回みました。
脱出した義経一行の足取りは伝承となって残されていますが、見ていくと切りがないほどたくさんあるのですが、下記から少しだけピックアップしてみますと・・・
流し見してください。
http://www.kuji-tourism.jp/yoshitsune/legend/footmark.html
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●判官稲荷神社(宮古市)
義経の徳をしのび、その甲冑を埋めた上に建てられた。
源義経が祭神になっている。
●横山八幡宮(宮古市)
義経主従16名が参拝した神社。
そのうちの一人鈴木三郎重家は老齢のためここに残り、神主となった。
●黒森神社(宮古市)
義経主従は3年3ヵ月にわたって黒森山に籠もって行を修め、般若経六百巻を写経して奉納した。
●九昌寺(宮古市
源氏の一族の源義里が居館を構えた地。
●加茂神社(岩泉町)
義経の遺児をまつったとされるところ。
●畠山神社(田野畑村)
義経の追っ手の武勇の誉れ高い畠山忠重の亡くなった愛馬をまつる神社。
自らの鎧を霊に供えたという。
●鵜鳥神社(普代村)
金色の鵜を見た義経が、7日7夜、道中守護を祈願した神社。
その後、神のおつげを聞き、山頂に鵜鳥大明神をまつった。
●藤九郎さま(普代村)
一人の追っ手が義経と対峙するも、その人徳に心打たれて家来となった。
その比企(ひき)藤九郎藤原盛長をまつる。
●清河羽黒権現(普代村)
義経を追っ手から守り亡くなった、清河・羽黒・権現という3名の山伏を、まつるほこらと伝えられている。
●諏訪神社(久慈市)
義経主従を追いかけた畠山重忠が、落ちゆく義経に同情しわざと矢をはずして助けたと伝わる地。
●館越(八戸市)
義経一行の八戸での仮住まいの地。
名の由来は、後に義経が高館に越した際、館を引越しした所という意味。
●おがみ神社(八戸市)
義経の正妻が愛用したと伝えられる、青銅製の手鏡(菊花紋双雀紋鏡)が社宝として守られている。
●熊野神社(八戸市)
海路で北上した義経主従が、上陸した種差海岸からほど近いところにある神社。
ここで休憩したと伝わる。
●三嶋神社(八戸市)
ここから車で5分の所に「源治囲内」という地名があり、義経主従をかくまった村人が住んでいた。
●小田八幡宮(八戸市)
義経の館である高館山の麓にある。
義経が写経したと伝わる大般若経が保存されている。
●観福時(一関市)
義経主従が投宿した際、四天王の一人、亀井六郎重清が礼として残したといわれる笈を所蔵している。
●弁慶屋敷跡(奥州市)
かつて弁慶が住んでいたといわれ、脱出の際はここで空腹を満たしてから出発したと伝わる。
●玉崎神社(奥州市)
義経が武運長久と道中の無事を祈願したと伝わる。
義経にまつわる品々を保存している。
宝物殿は要予約。
●葉山(住田町)
義経一行が逃げる際に通った急勾配の地。
義経が手をかけた「判官手掛けの松」や「弁慶の足跡」が残る。
●風呂家(遠野市)
葉山、赤羽根峠を越えてたどり着き、風呂を立てさせた家。
以後、家の姓を「風呂」と呼んだ。
●駒形神社(遠野市)
義経の愛馬「小黒号」が死んだことから、ここにほこらを建てて葬ったと伝えられる神社。
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このように、義経だけではなく、弁慶のゆかりの地もあることから、あくまでもひとつの可能性ですが、衣川の戦いで弁慶も死んではおらず、義経とともに北へと逃れた可能性が高いと考えられます。
そして、義経一行は、蝦夷に到達したと思われます。
さらに言えば・・・そこから大陸へと渡った・・・!?
このあたりのことを簡潔に駆け足でみていきたいと思います。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
日野
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