毎日欠かすことなく飲んで、肌が滑らかに!と「君の名は。」妄想談義・特別編「義経の首の謎」
いつもありがとうございます。
日野です。
今日はダイレクトメールの制作が、またまた追い詰められていますので(;’∀’)、非常に簡潔に・・・いきたいと思います。
お客様のお声をご紹介いたします。
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こんにちは。
日野様。
日々、メールを拝見させていただいております。
玄米パウダーを毎日欠かすことなく飲み続けております。
肌が滑らかに感じられて、50代半ばですが、嬉しく思います。
運命を変えるソープで、ホルモンバランスが崩れての膝の痛みが軽減いたしました。
年齢をあきらめず、希望が持てます(^^;
良い商品をありがとうございます。
これからも健康と、アンチエイジングに良い品の紹介をよろしくお願い致します。
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ありがとうございます!
玄米パウダーは、僕自身もとても気に入ってて、朝はヘンププロテインとともに、ケフィアヨーグルトなどと一緒に摂取しています。
お肌の調子が良いということで良かったです。
玄米パウダー+じゃばらを続けていただいているのですが、「じゃばら」には、スーパーフラボノイドと言われる「ナリルチン」が、他の柑橘系に比べて豊富に含まれていますので、いろいろな効果が期待できます。
玄米の良さについては、山田豊文先生の『超人をつくるアスリート飯』にも書かれていましたので、またお伝えします。
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玄米パウダーシリーズ
https://treeoflife.shop-pro.jp/?mode=grp&gid=1983470
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2個まとめてご購入で貼磁場磁石を1個プレゼント!
電磁波ブロッカー MAXmini5Gですが、多くのご注文ありがとうございます。
お伝えしているように、MAXmini5Gを2個ご購入いただきますと、今月の特別企画、非売品の「反磁場磁石」が、1個付いてくるという、なかなか凄い企画をしています。
この「反磁場磁石」は、手に取っていただいた方は分かると思いますが、商品名に「スカッとゼロ磁場 ゼロ無」と記載されています。
これが「反磁場磁石」のことです。
使用方法としては、記載されていますように、下着の上から、「胸腺」「丹田」「尾骨」に貼ってみてください。
複数お持ちの方は、上記の2、3カ所貼ってもかまいません。
絆創膏やテープで貼ってください。
貼る向きは特にないのでぜひ活用してみてください。
何か体感などございましたら、ぜひご報告いただければと思います。
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反磁場磁石
この磁石はU字の磁石をS極とS極、N極とN極という反発するものをくっつけて、反磁場を作り出した磁石です。
実際に丸山修寛先生のクリニックでも治療に使われていますが、アトピー、吐き気、ぜんそく、パニック障害、かゆみ、胃のむかつき、咳、便秘の改善が見られたという体験談があるそうです。
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※2個まとめてご購入していただくと非売品・貼磁場磁石を1個プレゼント!
電磁波ブロッカー MAX mini 5G
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「君の名は。」妄想談義・特別編「義経の首の謎」
ここからは、「コロナ」=「君」から「君の名は。」の妄想談義ですので、興味がない場合はスルーしてください。
前回は、源義経の死についてみてみました。
再掲します。
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義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、新田冠者高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。
文治5年(1189年)6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。
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ここでいくつかの疑問点があります。
いろいろな方が指摘していることですが、下記サイトを参考に見ていきますと、
www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/ryuh/yoshitsune.htm
まず、吾妻鏡を元に見れば、義経は旧暦四月三十日に衣川で自害したとされますが、死後43日かけて、腰越の浦に運ばれます。
旧暦の4月後半と言えば、今の新暦であれば、6月頃です。
蒸し暑い時期です。
酒に漬けられて運ばれたと言っても、6月の気候で、43日間という期間ですから、さらに腐敗はすすむはずです。
そして常識的に考えれば時間がかかりすぎているのです。
当時、平泉から鎌倉までは、2週間くらいあれば行くことが可能だったといいます。
2週間と言えば14日ですから、それがなぜ43日もかけて運ばれているのか・・・。
後に源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼすため軍を送り込みますが、平泉を滅ぼし、鎌倉に凱旋した時には、約27日かかったといいます。
大軍の移動ですから通常よりも時間がかかります。
しかし、この時は、軍隊ではありません。
もっと早くに届けられたはずです。
まずここが、おかしいという指摘です。
源頼朝の圧力に屈して、藤原泰衡は源義経を討ちますが、それであれば、一刻も早く、義経の首を届ける必要があったはずです。
何か時間稼ぎをしているとしか見えないのです。
もうひとつの疑問点「焼け首」
そして、もうひとつの疑問点として「焼け首」であったということ。
腐敗が進み、さらに焼け首であったということは、常識的に考えれば、見分けがつくはずがないということ。
もはや誰の顔か、判別することは困難であったはずです。
実際に首実検した梶原景時は「これは予州(義経)の首ではない!」と、不審を明らかにしたそうですが、和田義盛が「この首は焼け首であり、生前と異なって見えるのは当然。しかもこの首には眼中に光があり、むざむざと鎌倉に入れたら祟りが起こるだろう」と、景時を制したと言われています。
そして、きちんと確認せずに、というか確認できる状態ではなかったのですが、そのまますぐに、義経と断定し、源頼朝が確かめることもなく、海に捨てられたといいます。
源頼朝の不可解な行動
さらに不可解なのは源頼朝の行動です。
その時に源頼朝は、母堂の法要のためと称して、義経の首の鎌倉入りをしばらく許さなかったのです。
これも首の検分までに、時間がかかった要因の一つだと言われています。
一刻も早く義経がどうか確かめたかったはずなのですが、なぜか法要を優先しています。
源頼朝はどちらかといえば、疑り深い神経質な人物像がありますが、そうであれば、一刻も早く義経かどうか断定したいはずです。
しかし頼朝は、全く急いでいないのです。
この時、源頼朝は、届けられた首が、別人であると知っていた可能性もあります。
ということは、義経は死んでいないことを知っていた可能性もあるのです。
だから緊急性を感じていなかった。
それよりも頼朝は、自分の命に従って義経を討った泰衡に対して、今度は追討を急ぎます。
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6月13日に義経の首が鎌倉に届き、和田義盛と梶原景時が実検した。
25日、頼朝はこれまで義経を匿ってきた罪は、反逆以上のものとして泰衡追討宣旨を、朝廷に求めるが勅許は下されなかった。
しかし大庭景義の「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」という進言により、7月19日、勅許を待たずおよそ1,000騎を率いて、鎌倉を発して泰衡追討に向かった(奥州合戦)。
頼朝軍はさしたる抵抗も受けずに、白河関から奥州南部を進み、8月7日には伊達郡国見駅に達した。
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泰衡追討宣旨が朝廷に受け入れないにも関わらず、奥州に自ら乗り込んでいるのです。
急ぐ理由があったのでしょうか。
義経が死んでいないことを知り、泰衡とともに義経を追討するつもりであったのか、それは分かりませんが、やけに急いでいるのです。
さらに、義経の死後から約半年後に鎌倉において、義経の軍勢が攻めてくるとの噂が立ったことがありましたが、その時、鎌倉全体が動揺します。
義経が死んでいるのなら、そのようなデマには動揺するはずがないのですが、裏を返せば、源頼朝はじめ鎌倉の人達は、義経が死んでいないと、思っていたのではないかという指摘もあります。
義経の首が届くのに異常に時間がかかっていたということ、源頼朝の不可解な態度、そういったことを見ていくと、いろいろな裏がありそうな気がします。
義経には身代わりがいた・・・!!
そしてもうひとつ、もし仮に義経の首が本当に義経ではなかったのなら、この首は一体、誰なのか・・・!?という謎も残ります。
しかし、義経には身代わりがいたのです・・・!!
次回そのあたりについて触れてみます。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
日野
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