2016年最後の動画挨拶と「ふたり」の家康の最後(完結)

2016年最後の動画挨拶

いつもありがとうございます。
日野です。

今日が最後の営業日ということで、本当に今年1年ありがとうございます!
心から感謝いたします。

2016年も終わりに近く、動画で挨拶をと思って動画を収録しました。

15分くらいになってしまいましたが、またお時間があればご覧いただければと思います。

非常に似合わないというのか、ぎこちないかっこうをしておりますので、できれば見てほしくないのですが・・・、もう少し、おしゃれの勉強もしなさいと、妻にもよく言われていますので(汗)、来年は、服装やおしゃれも、少しは学ばせていただきたい・・・、とは思っています。

動画、お時間があれば、最後のご挨拶をしていますので、ぜひご覧ください。
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2016年最後のご挨拶
https://youtu.be/GmJyraC5GLE
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「ふたり」の家康の最後(完結)

「ふたり」の徳川家康について、いままでとかぶるところもあるかと思いますが、今回で区切りをつけたいと思いますので一気にいきます。

少し長くなりましたので、歴史の闇が好きな方はご覧ください。

これはほぼほぼ飛鳥昭雄さんの説を踏襲しています。

結論から言えば、以前に述べたように家康は「ふたり」いました。

正室の子と側室の子。

同日生まれという数奇な運命のもと、生まれてきたふたりの家康。

正室の子は、僧侶として匿われ、後に、岡崎市の広忠寺の初代住職として、過ごすことになりますが、ある時、急死ということで、原因も不明のままこの世から去ります。

一方の側室の子として、正室の子と同日日に生まれたとされる子は、家康として生きることになります。

しかし、実際には、同日生まれということにして、賀茂氏の血を引く血筋の子が、家康として送り込まれていたのです。

それが、側室の子として初めからであったのか、あるいは途中で別の子にすり替えられたのかは、定かではありませんが、のちに今川家の人質となる竹千代の頃には、すでに賀茂氏の血をひく子に成り代わっていたのです。

だからこそ、徳川家の家紋は、賀茂氏の紋と関わりのある葵の御紋なのです。

そして、賀茂氏の血をひく家康は、成長して、やがて幾多の危機を乗り越え、関ヶ原の戦いを経て徳川幕府をつくります。

影で支えていたのが天海大僧正(=明智光秀)です。

その後、大阪冬の陣で、徳川家康と豊臣、真田幸村の激突となります。

この時、真田幸村は家康軍が来るのを見越して、茶臼山に地雷を仕掛けていたといいます。

この罠に家康軍がはまります。

家康か家康の家来たちかはわかりませんが、地雷を幸村の思惑通りに踏んでしまいます。

これで、家康は実は負傷してしまいます。

籠に入れて家康を退却させている時に、真田軍の追手がやってきます。

そこへやってきたのは豪傑と言われる後藤又兵衛でした。

籠が怪しいということで、念のため槍で突き刺します。

これで家康は致命傷を負います。

辛くも逃れるたのですが、結局、堺市のあたりで、出血多量で家康は死んだのだといいます。

しかし、真田軍はこの籠の中の人物が、家康とは気がつきませんでした。

ですから、大阪夏の陣でも、家康の命を狙おうとして、最後まで追い詰めるのです。

ここで死を迎えた賀茂氏の血を引く、いわば偽物の徳川家康は、大阪南宗寺に安置されることになります。

徳川家康の墓が、大阪の南宗寺にあったということは、以下のサイトに記されています。
ここから以下引用させていただきます。
http://style.nikkei.com/article/DGXNASIH22004_T20C12A8AA2P00?channel=DF130120166105&style=1
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1557年(弘治3年)創建の、堺市にある名刹、南宗寺。
一画に「東照宮 徳川家康墓」と、碑銘が刻まれた立派な墓がある。
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また、下記は後の「夏の陣」で家康が死んだとありますが、真相は、その前の「冬の陣」であった、ということになります。

ですから、「夏の陣」を「冬の陣」に置き換えていただくと、それが真実となるようです。
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「南宗寺史」には「(家康が)大坂夏の陣で、茶臼山の激戦に敗れ駕籠(かご)で逃げる途中、後藤又兵衛の槍(やり)に突かれた。辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れており、遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との伝説が紹介されている。
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また、かの松下幸之助の名前も、墓に記されているといいます。
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家康の墓はこの伝説に沿って、1967年(昭和42年)に建てられたものだ。
墓の裏側には、賛同者として松下電器産業(現パナソニック)創業者の、松下幸之助氏の名前も記されている。
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南宗寺には幕末の幕臣山岡鉄舟が、記した碑文があるといいます。
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家康の墓の斜め後ろには、伝説にも登場する開山堂の跡がある。
そこにある無名塔の隣には、幕末の幕臣だった山岡鉄舟の筆という、「この無名塔を家康の墓と認める」との内容の碑文が埋め込まれている。
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さらに・・・2代将軍秀忠と、3代将軍家光が、この南宗寺を訪れているといいます。
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開山堂跡近くの坐雲亭内の板額には、1623年(元和9年)7月10日に徳川秀忠、8月18日に家光と、代替わりした両将軍が、相次ぎ同寺を訪れた記録が残る。

川上さんは「2人の将軍が1カ月ほどの間に南宗寺を訪ねるのは、かなり異例でしょう」と説明する。
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大阪冬の陣で、賀茂氏の血を引く徳川家康は、真田軍に討たれます。

しかし、正室の子である本当の徳川家康は、岡崎市の広忠寺に、住職「恵最(えさい)」として生きています。

この人物を、後釜の徳川家康、真の徳川家康として据えることを、天海(明智光秀)は仕組みます。

この天海の画策によって恵最は、急死ということにして、真の徳川家康になるのです。

天海は、かなりの深謀遠慮をもっていて、幸村と秀頼をあえて逃しているかと思えば、特に非情と思えることもします。

家康の出自を知る賀茂神社の僧侶を、秘密が漏れることを恐れて、皆殺しにしたと言われています。

大阪冬の陣の翌年、大阪夏の陣が勃発しますが、この時は、すでに正室の子、つまり「恵最」が徳川家康となっていました。

そのことを知らない幸村は、徹底的に「もうひとり」の徳川家康を追い詰めます。
一時は、家康を切腹寸前まで追い詰めます。

「ふたり」の徳川家康を、ここまで追い詰めた人物は他にいないでしょう。

辛くも命拾いした徳川家康ですが、この翌年、死を迎えます。

結論から言えば自然死ではなく・・・、天海大僧正の命による暗殺でした・・・!

一般的には、鷹狩に出た先で倒れたとか、鯛をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた、天ぷらによる食中毒で死んだとか、言われていますが、実際は、鷹狩の時に、銃で撃たれています。

暗殺した人物も分かっていて、その銃も残されているといいます。

なぜ真の家康が抹殺されたのか・・・?

ひとつは将軍の跡継ぎ問題で、実の子(実際はいわれていませんが)である徳川家光を、将軍に継がせたかった春日局と、それをチャラにしたかった真の家康との対立も、あったといいます。

結局その時点で、徳川幕府の盤石な体制は、天海大僧正によって、ほぼなし得ていたので、徳川家康はすでに必要とされなかった・・・、というのもあります。

もっといえば、いなくてもやっていけるシステムが、すでに出来上がっていたと。

天海大僧正が影ですべてといっていいほど、陰陽道を駆使して成し遂げていました。

そして、結局、天海大僧正の命によって暗殺が決行された・・・、というのが本当のところのようです。

真の家康は、そう考えるとあまりにも、本当の家康として生きた時間が、短かったということになり、僕たちが歴史上知っている家康は、賀茂氏系の血をひく、厳密に言えば本当の家康ではなかった、ということになります。

しかし、家康としてそれはそれで、役割を果たしたと言えるのでしょう。

数奇な運命をたどったふたりの家康。

これはあくまでひとつの説です。

興味がある方は、真相はぜひご自身で調べてみてください。

といことで、マニアックな話題になりすみませんでした。

最後まで読んでいただきありがとうございます!

日野

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