前回に続き明智光秀のお話です
いつもありがとうございます。
日野です。
今日も健康とは違う話になってしまいましたので、興味がなければスルーしてください。
前回は天海大僧正の正体は、明智光秀である可能性が高いということを述べました。
いやあ、天海は明智光秀だったんだ・・・、と妻に突然言ったらは・・・?と言われて、で、それが今の生活と何か関係があるのと言われました・・・。汗
前回、明智光秀と秀吉の関係について、少し僕の言い方が足りなかったかなと思ったので、その部分を付け加えさせていただくと、決して光秀と秀吉が、友好関係であったということではありません。
むしろ敵対の関係にあったのですから、光秀は織田信長や秀吉にとっては、逆賊となりますから、秀吉は是が非でも、光秀を討つ必要がありました。
だからこそ、光秀の首を天下に示す必要があったのであり、首の信憑性よりも、光秀を討ったことを知らしめる必要があったのです。
ただ、信長が討たれるという情報は、すでに秀吉側に通じていた可能性があります。
そして、信長が本能寺の変で死んだ時、遺体が見つかっていないという謎があるのですが、これは、どうも秀吉側の人によって首は運ばれて、密かに埋葬されているようです。
それがいつか述べた、現在、京都の船岡山のある場所に埋められた可能性が高いというものです。
この時代も陰陽師が影で暗躍していましたが、この信長の首は、呪詛や京都守護の目的で埋められたようです。
そして、明治の時代に明治天皇の命令により、船岡山に織田信長を祀る建勲神社が建設されます。
織田信長は南朝の復興を、実は画策していたという情報がありますが、それを北朝と関わりのあった明智光秀によって、阻まれたという見方もできます。
ということは、織田信長を讃えた明治天皇は、南朝側の人間であるという可能性があり、事実、皇居外苑に楠木正成像も、明治天皇の御代に建てられました。
楠木正成といえば、まぎれもなく南朝の雄とされる人物です。
そして、明智光秀という人物と最も関係が深かった人物は、徳川家康になります。
なぜなら、もしも、明智光秀が、後の天海になっていたとしたら、徳川家康の参謀役であった、天海との関係を見れば明白です。
しかも、豊臣秀吉の死後、天海という人物は浮上してきた人物であり、秀吉の目の黒いうちは、表に出れなかったとみることもできます。
徳川家康と天海は歴史で言われるよりも、ずっと以前から知り合いであったはずです。
実は、織田信長が本能寺の変で死んだ時、徳川家康も非常に危ない状況でした。
一説では、もし本能寺の変で明智光秀が、織田信長を討たなければ死んでいたのは、家康であったということも言われています。
本能寺の変を知った時に、家康の供回りはわずか三十数人にすぎなかったと言われ、家康最大の難関とされた「伊賀越え」も、実際は、光秀と家康が通じていたからこそ、無事に戻れたとも言えるのかもしれません。
ですから、この明智光秀の時から、家康との関係は密に構築されていたとみて、不思議はないと感じます。
また、おもしろいことに、徳川幕府の2代将軍は「秀忠」、3代将軍は「家光」なのですが、よく見ると、光秀の名前が一時ずつとられています。
これは偶然なのでしょうか・・・。
明智光秀、少なくとも、光秀と家康が憎みあう関係であれば、この名前はありうるものかどうか。
結論を言えば、これも偶然ではないという答えになります。
いずれにしても、天海大僧正の働きを見れば、江戸を完全なる都市にしたてあげて、徳川幕府不動の基礎を築いた影の立役者でもあり、只者ではないことがわかりますし、そういう意味では明智光秀という人物も、只者ではないということになります。
またこれがもし本当であれば、徳川家康と明智光秀(=天海)こそが、長期にわたる江戸幕府を
一心同体と成って創設した・・・、とみることもできます。
長話になりすみませんでした
ということで、すみません、時間がきてしまいました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
日野
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